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天保13年(1842年) 甲賀郡の地から三上山に向かって一揆が川の流れのように、、。流れが次第に大きな流れに、そして川幅を広げ水量を増し、封建時代の悪政に立ち向かっていきました。
伝芳山から撮影 菩提寺山 その向こうが三上山


義民碑がいくつか建てられています 一揆のたどった道筋

矢川神社から石部宿まで
一揆のたどった道筋

部宿から三上村まで

 素人のおっちゃんなりに甲賀、野洲で起きた天保一揆を見つめ直していきたいと考えています。
 小学生の頃からこの甲賀の地で大きな百姓一揆があって十万日の検地の日延べの証文を勝ち取ったと聞かされていました。甲賀の人間には、この伝統の血が流れているという想いもあります。
 甲西町三雲の伝芳山には大きな天保義民の碑が建てられています。このような何気なく見ていた聞いていたことをちょっと掘りさげていきます。 
 甲南町 水口町 甲西町 石部町 栗東町 野洲町と近くですからゆっくりと写真も載せながら訪ねて行きます。 
 
証文は




 一揆のはじまりは、水口町天王町の旅篭で行われた甲賀郡70数ヵ村の庄屋会議。
 同時に行われた野洲郡戸田村の立光寺には野洲栗太郡の60ヵ村の庄屋が集りました。
 水口の街道筋にある天王町。当時、萬屋という旅篭があったそうです。その場所はわかりませんが。  深刻な庄屋達が顔を寄せ合って相談したことが想像されます。
天王町はもう古い町並みは残されていませんでした。 わずかに街道の民家を残す間口の狭い奥行きの長い、うなぎの寝床の民家です。
昭和30年代には下駄屋 乾物屋 こんにゃく屋   菓子屋 そう貸し本屋もありました。それに古い大きな民家もあったんですが。旅篭がどの家あたりにあったのかはわかりませんでした。


横田橋から見える牛の背という大きな岩が川原にあります。ここにぞくぞく集ってきた農民で膨れ上がった聞いています。手にてに竹やりやむしろ旗で何が何でも無茶苦茶な検地を止めさせないという決意で。さらに三上村にいる検地役人のところへ合わせて4万人が




甲南町市原 矢川神社 杣川のすぐ近くにある集落。田園風景が広がります。
集落から少し離れたところにあるお寺 浄土宗