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霊仙山の帰りお多賀さんに寄りました 昼間は観光客が多いところです もう5時を回っていますから 参拝者も少ないです 本殿の奥の扉も閉められようとしていました 子供のころは近江鉄道で行きました


伊邪那岐と伊邪那美の命を祭っています 2人の神は天照大神を産みました 伊勢神宮の両親のお宮さんです そう教えてもらいました 伊勢のお宮さんのお父さん お母さんです 
でもね お宮さんをめぐって色んな思惑 力関係 勢力争いがありました  延暦寺の勢力に対抗するためこの神社に徳川家がてこ入れもしました 近くの胡弓神社との争いもありました 
明治以降 郷社 中社 大社と格付け上がって 今はふつうの多賀神社  お多賀さんのほうがいいですね 祭りの時は神輿ががこの太鼓橋を渡るとか   近江灯篭でしょうか 
多賀講の燈篭も 奥のがそうです 伊勢講と同じで講で参拝しました  やはり神聖さが あらわれています たまじゃりに 桧皮葺 延命の神さん 徳川家の後押し 天皇家の参拝で栄えてきました 明治の廃仏毀釈の騒動もありました 藤原期の木造阿弥陀如来も露天に遺棄されました  
参拝者が打つ拍手でが パン と響いてきました  回廊も今までの近江の寺社に立派なのはありません 能舞台 吹きさらしなんですね 
能舞台 古そうです 松の絵も古びています 幽玄 薪能が似合いそう  さざれいし 君が代に出てくる石 ちょっと歌の文句は無理がありそう でも石には責任がありません これは石灰質で回りの石が固まったもの 伊吹 岐阜の県境で産出 「さざれいしがいわおになりません」私たち 庶民が苔がむすまで平和な世の中に 江戸時代の大釜 かまどに寛永通宝の模様が お湯神事の調度品
絵馬 面白そうな絵馬 軍艦が描かれていました 第一次世界大戦時のものでしょうか 地中海とか書かれているし 読めません 偲ぶ教練 池蛙?無事日本に帰られたのでしょうか?
門前町が発展しています ここは鳥居の前 糸きり餅が有名 同じような店が何軒かありました 多賀屋の糸きり餅 琵琶湖放送で宣伝してたような気がします 糸を使って細く伸ばした餅を切ります 細い青赤の線が入った七五三の飴みたいな形の餅  もう時間が遅く閉まってました  おまけ
近江の伝説より 「君が代」の歌について書かれていました

平安時代 惟喬親王(これたかしんのう)が近江に来て ろくろを使っての木地師を育てたのは有名です その親王の部下に殊原左衛門というのがいました その左衛門が伊吹で珍しいさざれ石を見つけ歌を詠みました その歌が「君が世は、、、」この歌に石を添えて朝廷に献上 後に「古今和歌集」に採用され 石位左衛門と改名 それが君が代の歌の始まりだとか これもひとつの伝説 こんな伝説を頭に浮かべてみても たまにはいいでしょう




伊邪那岐がこの地おりて栗栖の郷に鎮まられた 道中 柏の葉に盛られた栗飯を出されたいそう喜んだとか その箸を地面にさされそれが神木になったといわれています 杉坂峠 これで一本の杉です その下に小さな祠が
さすがに この杉の大木には圧倒されます 木が生きてきた歴史から来る神聖さ 厳かさ 自然崇拝もわかるような気がします 厳しさ 暖かさ 包み込む おおらかさがあります そして今も生き続けています これがすごいです お多賀さんの奥宮 神木 峠から見える犬上 愛知郡の平野です 三上山と同じで神体がこの山だったんです
水田がきらきらひかっていました 里から眺めるこの峠は神聖さがあったんでしょうね 朝な夕な里の人達が手を合わせたことでしょう 杉の集落 もう誰も住んではいません かっては火災にあって集落が全滅したとかそういった苦い経験から池が作られていました  私の見たのは左下 コンクリートの防火用水 集落の前にありました 川が流れていない山の中の悲しさです  そこに もりあおがえるの卵がありました
栗栖の集落にある調宮神社 お多賀さんのお旅所 奥宮 元は杉坂峠の自然崇拝 その里のお宮がここ 
水争いは 芹川ダムができるまで江戸時代から明治大正昭和と続きました 山の境界争いもありました お宮の勢力争いも 今は静まりかえっています 平和な時代?
芹川に架かる橋橋 もう少し下流にありました 堰 どちらにどんだけの水を送るか ここで決められます